歴史
2018年12月07日

千利休はなんで教科書に載っているの?

小学校・中学校で習う歴史、私は社会科の中では歴史が一番好きでした。(ただ、漢字が絶望的に書けなかったので点数は悪かったですが。)
特に幕末史が好きで、大河ドラマ「新撰組」を毎週楽しみにしていたことを覚えています。
ただ、学校で歴史を勉強していると「なんでこれが教科書に載っているの?」と思うことが多々ありました。そのひとつが「千利休」です。

 

中学の社会科の教科書(日本文教出版:中学社会歴史的分野)において千利休について、このように記述されています。

 

 

堺では、町人の千利休が茶の湯を大成し・・・

 

 

たったこれだけです!ねっ!なんで教科書に載んねん!て思うでしょ!!
おそらくこの時代、竹とんぼ作りや川魚釣りを大成させた人だっていたでしょうに、なのになぜ千利休だけ、茶の湯だけ優遇されているのでしょうか?

 

実はこの時代の茶の湯は単なる趣味ではなく、非常に政治的に利用価値が高いものだったのです。

 

1500年代、大阪の堺は日本の商業・流通の中心地でした。日本中・世界中の情報が堺に集まったのです。そこに目を付けたのが時の権力者、織田信長。信長は堺を実効支配するために、当時の流行であった茶の湯を利用することを考えました。
まず多くの町人から茶道具を買い上げ、その後茶の湯を国策にすることによって、「多くの名品を持っている=権力がある」という風に見せたのです。
そのためには茶道具の目利きができる人物が必要でした。そこで白羽の矢が立ったのが利休でした。信長は茶道具を独占するというだけのことで権力を手にし、武力を使わずに勢力をつけていったのです。

 

やがて、本能寺の変によって信長は明智光秀に討たれますが、その後豊臣秀吉が天下を統一します。信長を大変尊敬していた秀吉は、信長の行った「茶の湯の政治利用」を継承します。

 

この時代、鉄砲(火縄銃)は伝来しているとはいえ、まだまだ戦は人対人の時代です。如何に大名を取り込み、武力を高めるかがカギでした。
秀吉は数々の大名を茶室に招待し、もてなします。そこでも利休は大活躍します。お茶だけでなく、庭の手入れ、料理の準備まですべてをプロデュースすることによって

 

「こんなに素晴らしいもてなしが出来る豊臣秀吉はすごい!権力・財力がある!」

 

と思わせたのです。そして大名たちに「豊臣方についていたほうがいいのではないか?」という風に考えさせるのです。
そこでとどめの

 

「今度、柴田勝家とドンパチやんねんけど・・・、まさかお前あっちに着くんとちゃうやろな?」(本当にこんな言い方をしたかどうかは知りませんが)てなもんです。

 

こうして秀吉は天下人へと上り詰めていくのです。

 

結果、利休の発言力・影響力は膨れ上がり、それをいいように思わなかった秀吉によって自害を命じられその生涯を終えるのです。

 

 

千利休はただただ茶道をしていた人ではなく、政治参謀として2人の天下人を作り出したのですね。ただ、そこまで細かなディティールをいちいち説明できないので小中学校の教科書では「茶の湯を大成した」程度の説明のみになってしまって、なんとなーくしょぼいイメージになってしまったのです。かわいそうに・・・。

 

 

 

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